幼少の頃〜おとなしい、物静かな子
父方の祖父母と同居していて、祖父母には女の子がいなかったのでとてもかわいがってもらいました。
女の子らしい習い事でピアノはいいと祖父母が言っていまして、ピアノを買ってもらいました。
ピアノがあったので、近所にあった個人のピアノ教室に5歳の頃、通い始めました。
先生がとても厳しいレッスンで、毎週のように泣いて帰ってきました。
厳しかったのは辛かったですがそのおかげでピアノを真剣に弾くようになりました。
幼稚園では、マーチングバンドに入って、みんなと一緒に音楽を演奏するのが楽しかったです。
その反面、私はベルリラを担当したのですが、夏の暑い日に重たい ベルリラを持って演奏して歩くのは、とても大変なことでした。
小学生〜ピアノが楽しくて仕方がない
私が小学3,4年生の頃、ピアノの先生が結婚を機に先生を辞めるということで、先生が変わりました。
その頃から、ピアノのレパートリーがだんだん増えてきて、自分で弾きたい曲や好きな曲を弾くことが楽しくてしかたがなかったです。
ある日、ラジオから流れてきたショパンの幻想即興曲を聞いたときは、感動してしまい、いつか必ずこの曲を弾こうと思っていました。
学校から帰ると、必ず毎日ピアノを弾いていました。
学校も友達と遊ぶことが楽しかったです。
読者感想文で賞を取ったり、園芸係で菊花賞を取ったこともありました。
また、叔父の結婚式で結婚行進曲を弾いたこともありました。
中学生〜ピアノと勉強の両立
中学になってからは、学校とピアノの両立は大変でしたが、とてもやり甲斐があって楽しかったです。
合宿コンクールの伴奏もやったり、大変でしたがとても有意義な時だったと思います。
中学3年生の受験の時に、音楽の道に進みたくて、音楽高校を選び受験しました。
受験のために素晴らしい先生について学んだことはとても勉強になりました。
その時初めてピアノの音ってこんな素敵な音が出せるのだと感動したことは今でも覚えています。
レッスンも大変厳しかったですが、なんとかその素晴らしい音に近づけようと、一日8時間弾いていた時もありました。
受験にむけて毎日のようにピアノを弾いて、無事に常葉学園橘高等学校音楽科に入学することができました。
その時お世話になった先生には、今でも感謝しています。
学生〜音楽の道へ
高校、大学と音楽を専門に学びました。
高校では、オペラの練習ピアニストを担当して、みんなで音楽を創る喜びを味わいました。
ピアノに限らず、声楽や管楽器や弦楽器を主科にする友達もいて、楽しかったです。
ピアノ実技の試験の時は、緊張して練習の時のように弾けなくて、ミスタッチだらけで、落ち込んだことも何回もありました。
先生に「あなたは練習ではあんなに弾けているのに、なんであんなミスばかりするの!」と、よく注意されて、へこんだことも何回もありました。
それから、人前で弾くことはどういうことか、メンタル面から、直していきました。
先生に言われた言葉で印象深かったことは
「あなたは人に向かって弾いてるけど、ピアノは自分に向かって弾くのですよ。」
と言われ、自分の内側と向き合って弾くようになったら、緊張しても人前で弾いたとき練習の時と同じように弾けるようになりました。
社会人〜ピアノの先生に
大学卒業後は、楽器店と自宅で子供から大人までの方にピアノを教えるようになりました。
教えるようになって初めて私が子供のころ先生が厳しく指導してくださときの気持ちがわかり、感謝の気持ちが湧き上がると共に、今度は私が皆さんに伝えていく立場になったのだと改めて思ったものでした。
また、県の演奏家協会に入って、地域で演奏活動もしていました。
小学校や地域のイベントで演奏をしていました。
結婚〜出産
26歳の時、友達の紹介で知り合った今の夫と結婚をしました。
結婚と同時に夫の仕事の関係で清水を離れ、浜松の方へ引っ越しました。
しばらく、清水に帰ってきて、自宅でピアノを教えていましたが、それから、長男と長女が産まれ子育てが中心の生活になっていきました。
子育て〜苦難
実家から遠く離れたところでの子育ては心細いものでした。
友達も頼れる人もいなかったので、すべて私がやらなければならなく、本当は一番幸せなときなのでしょうけど、孤独で辛いこともたくさんありました。
上の子の行事のときは、いつも下の子を連れて行けなければならなくて、困ったことは何回もありました。
夫は仕事熱心な人だったので、仕事を休んでもらうことも、頼むこともできなくて二人の子を育てることに必死でした。
子供が思春期のころは、学校を行くことを嫌がって行けなかった時もあり、子供も私も大変辛い思いをしたこともありました。
私自身も思い悩んで、精神的にも限界だったことがありました。
でも、周りの方々のサポートのおかげで子供も私も乗り越えることができて、今は、社会で皆さんの役に立つ仕事をさせていただいていて、周りの方々には、感謝しかありません。
ピアノ教室の保護者の方で、子育ての悩みを抱えていらっしゃる方がいたら相談に乗りたいと思っています。
40代~教室の発展
子供の手が少しずつ離れていった、ちょうど40歳のころ、楽器店から結婚や出産する先生がいるので、教えにきていただきたいと電話があり、再び楽器店へ教えに行くことになりました。
それと同時に自宅でも、教えてほしいという方が増えてきました。
今、現在は、自宅に力を入れてピアノを教えています。
一人でも多くの方に、音楽やピアノを弾くことの楽しさや素晴らしさを知ってほしいと思い、子供から大人までの方々にピアノを教えています。
一つ私の大きな目標は皆さんを音楽で精神的な平和と幸せを送り届けることだと思っています。
思い出の生徒さん
私が40代の頃、大人の生徒さんで交通事故で身体の半分が不自由になってしまった方が習いに来ました。
ピアノがリハビリにいいということを周りの人から聞いて習いたいと思ったそうです。
最初は指が動かなかったのですが、とても熱心にレッスンに通ってくださって、1年くらい経った頃、指が少しずつ動いてきたのには感動してしまいました。
生徒さんも習ってよかったと喜んで頂けたことはとてもうれしかったです。
学校の先生に・・・
私が20代の頃、子供のころから教えていた生徒さんで、出された曲は次のレッスンで必ず完成させて弾いてくる生徒さんがいました。
私の話も素直によく聞いてくれて礼儀正しくてきちっとした生徒さんで、中学生のころには幻想即興曲を弾けるまでに成長した生徒さんでした。
お母さまもピアノを習うことに協力的で理解もあって素敵な方でした。
ピアノの成長は素晴らしいものでしたが、音楽の道には進まず教員を目指して頑張っていた生徒さんでした。
Aちゃん・・・
私が初めて教えた生徒さんの中に地元の進学校である清水東高校へ進まれた生徒さんがいました。
小学1年生のころ私のところにやってきて、ピアノを習い始めました。
ピアノを頑張りながら、お勉強が良くできる生徒さんで、小学校、中学校の成績はいつもトップでした。
保育士・・・
私の子供の同級生で、保育士を目指していてピアノが弾けるようにしたいということで、高校生からピアノを習いに来た生徒さんがいました。
とても素直で、覚えも早く、あっという間にバイエルが終わってしまい、大学受験ではとても緊張してしまったようでしたが、無事、合格しました。
その後、保育士となって、子供たちに楽しんでもらえるような歌やピアノが弾けるようになり活躍していました。
学校の先生・・・
小学生のころから、とても素直で、自分の意見をしっかりと言える、受け答えのしっかりした生徒さんがいました。
いつも曲を完成させてくる、手のかからない素晴らしい生徒さんでした。ピアノの進み具合も良かったのですが、学校の先生になりたいという本人の希望もあって、ピアノは楽しめる程度にレッスンしていました。
やはり勉強ができたので、その後は、勉強に専念して、立派に学校の先生になられました。
静岡大学・・・
小学生のころから教えていた生徒さんでした。
ピアノは譜読みもゆっくりでしたが、基礎の練習を頑張っていました。やっぱり勉強ができた生徒さんでした。
とにかく計算は早いし、読み書きも早い、文章を書くのも得意でいつも私に学校のことを楽しそうに話してくれる生徒さんでした。
習字も得意で書道五段までもっていました。
勉強が得意だったので、静岡高校から静岡大学へと進んだとても優秀な生徒さんでした。
Ameba塾探しにて以下が紹介されました。
・「静岡県のピアノ教室おすすめ」への記事のリンク
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